2005年03月31日

総論賛成各論反対

これは政治の世界では普通に行われていることであろう。とある議員がTVに出演した時、無駄な道路建設の問題を扱ったとしよう。議員は基本的にこれに賛成する。しかし、いざ自分の地元の高速建設の話になるとあれやこれやと理由をつけて、建設を続けたがる。総論賛成各論反対の典型例であろう。

これは所謂ダブルスタンダードの一種に分類できよう。一般論として議論する時と、自分の利害が絡む時とで異なる基準があるはずである。上記の例では、「では議員、貴方が考える必要な道路建設と不要な道路建設の基準は何ですか」と問えば判明するだろう。おそらく答えられないからである。あるいは無理に答えようとして総論としての建設不要論か、各論としての自分の関わる道路についての必要論のいずれかと(下手をすると両方と)矛盾する回答をする羽目になろう。

しかし、特定の場合総論と各論を分けるような基準が必要になる場合がある。組織とその成員としての個人の評価についてである。
こちらでの議論でも問題になっているが、ある組織が悪質だからといってその成員を全員悪人であると決め付けるのは正しい評価とは言えない。

これは一つには組織が要素還元的ではないということに由来するだろう。要素換言的であるというのは、全体像が個別の要素の単なる組み合わせである場合のことである。先述の道路建設の例はおおむね要素還元的であろう。一つ一つの道路建設を検証することで全体としての道路建設の是非が浮かぶし、全体としての一般論を今度はそのまま個別の道路建設の例にあてはめて妥当性を考えることもできる。

しかし構成されたシステムの中には個別の要素に還元されないものがある。判りやすい例は文字であろう。一つ一つの線や点にはほとんど意味がなく、特定の形を成すことで初めて意味を持つ。またその文字を再び線や点に分解してしまうと元の意味をも喪う。

組織や共同体も同様であると考えられる。ある組織に構造上の問題があろうとなかろうと、それとその成員たる人間一人ひとりに問題があるかないかには基本的に関わりが無い。例えば日本について考えてみる。いい国だと思うにせよわるい国だと思うにせよ、しかし犯罪者が居なくなるわけではないし、しかし悪い奴ばかりでもない。これが基本であろう。

このように基本的には組織は要素還元的ではなく、要素としての構成員の善悪と組織の善悪の間には普段は因果性が無い。だがここで疑問に思う人も居るだろう。「犯罪組織などはどうなる」と。

これについて「犯罪組織の中にもいい奴は居るはずだ」という弁護もあろうが、それでもこういう組織の場合少なからず要素に還元されると言えるだろう。なぜなら組織側が成員を選別してしまっているからである。

それゆえ組織と成員について結びつける前にしなければならないのはその組織の構造を知ることである。必然的によくない人物ばかりを集めてしまうようなつくりになっているのか、偶然悪人が混ざっているのか。組織が全体として犯罪に加担しているような場合でも成員を選別していないことはある。例えばオウムはかつて組織犯罪に手を染めたが、しかし成員全員を悪人と決め付けるのは早い。オウムでは犯罪に手を染めるのに躊躇無いような人間ばかり選別していたわけではないのであるから、個々の成員の善悪と犯罪組織としてのオウムの悪とは別個の問題である。多くの成員が善良であっても、少数の悪意ある輩の意見を組織が反映してしまうというのはそう珍しいことではないだろう。

組織を見、一人ひとりの人を見ることが必要になるだろう。
posted by князь Мышкин at 20:09| ブリスベン ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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