2005年04月24日

医療もビジネス

一人の命は地球より重いなどということがある。

先日、テリ・シャイボさん(フロリダ)が死亡した。
それまでの経緯をまとめたサイトを見ると、ずいぶんと紆余曲折があったようである。

これについてはキリスト教右派の尊厳死に対する反対なども含め政治的な意図も色々関与してきたようである。しかしながら最終的にはそれらの主張を連邦裁判所が退け、尊厳死を認めた形となったようだ。

それにしてもこれには様々な問題が含まれているだろう。そもそも回復の望めない状況での延命措置に果たしてどれくらい意味があるのか、あるいは逆に回復の可能性がゼロでないなら死んでいないというなら、今度は脳死状態での臓器提供は殺人も同然であるということになるなど。

そしてそれ以上の問題は、医療もビジネスである以上、資金が様々な障害を生むということであろう。提供される医療サービスは支払える金額に応じたものにしかならない。莫大な医療費が必要となる一部の治療は受けられないまま死ぬことは先進国でも十分考えられるし、貧困に喘ぐ国々ではそもそも全く医療サービスを提供されていない地域もあるわけである。そういった医療サービスを受けられない人々の存在がこの運動の中では見当たらない。彼女の延命に費やされた医療費を回せば多くの途上国の人々を救えるというのは憶測ではあるまい。

しかも医療がプラスの要素ならマイナス要素も加味しなければならないだろう。疫病や災害など、そして紛争によって傷つき倒れる人は少なくない。そういうマイナス要因もこの運動の中では概ね無視されている。

これはビジネスとしての医療の問題であり、人の命と命を秤にかけて、最大多数の最大幸福の為に少数の犠牲をやむをえないとする立場からの批判である。この立場からすれば、もう助かる見込みがほとんど無い人の延命に予算と労力を費やすのは無意味であるということになる。この立場から命の選択を実行に移す医療が臓器移植であると言えるだろう。脳死状態の人が完全に死んだとは言い切れない。現時点ではまだ治療法は発見されていないが、もしかしたら延命する中で見つかるかもしれない。しかしそういう僅かな可能性を切り捨て、現時点で確実に助かる人の為にその命を切り捨てるわけである。


と、ここまで批判的な立場から語ったが、上記の運動も、まして臓器移植も否定するつもりは無い。地球より重く、十分無限に重い一人の命はその無限ゆえに一人の命は大勢の命と十分同じくらい重いという結論と結びつく。後は等価なそのどちらを選択するかという問題である。

必要なのは自覚である。自分はそこで命の選択をしたという自覚である。無自覚に善を妄信することに対してこそ今回の批判は向けられている。
posted by князь Мышкин at 01:33| マイアミ ☀| Comment(1) | TrackBack(1) | 一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
補足。私が考える脳死と植物状態の違いは、脳死からの回復例が0な一方植物状態からは稀ながら回復例がある。この一点に尽きる。

言い換えれば脳死からの奇跡的回復例が一例でも出てきたら移植医療は大変なことになる。その覚悟が果たしてどれくらいあるのか?というふうに今回の内容を言い換えることもできよう。
Posted by Мышкин at 2005年04月27日 19:41
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ホントは怖い脳死臓器移植の話
Excerpt: この前、「脳死」と「植物状態」の違いを始めて知りました。日本を含む多くの国では、「脳死」とは、大脳・小脳・脳幹の機能が不可逆的に失われた状態を指します。一方「植物状態」とは、大脳・小脳の機能は失われて..
Weblog: 脆弱の世界
Tracked: 2005-04-26 01:57
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