2005年05月20日

寸評5

前回までに引き続き殺人の是非について、損得勘定、あるいは自己の利益という立場からの意見を述べてみたい。

これはあくまで私の勘定方法ですが、まず殺人に限らず全ての因果律を計算し尽すことはできないはずで、その意味では損得勘定は殺人に限らず如何なる場合でも確固たる結論には結びつかないのは確かです。ではどうするかというと私の場合経験則と確率論に頼ることになります。経験的にみられる様々な事例を考慮に入れ、それをもとに計算しきれない部分について確率的に(パーセンテージを算出するという厳密な意味ではなくもう少し緩やかに)どちらがより有益である見込みが高いかを比較し算出しようというわけです。

まず最も単純に考えて、現代日本で想定される様々な場面一般において殺人が有益であるかということだけ考えればとてもではないが有益ではなく、多くの場合不利益を生み出しましょう。そんな中で例外的に殺人が有益な場合が含まれるとしても、その場面を算出し、ノーリスクであるために周到な準備をし、その結果たとえば完全犯罪として罰せられぬような殺人が為せたとしても、その労力に見合うだけの利益とは一体どれほどの利益が必要かと思うわけです。つまり、例外的に殺人が認められる状況があるとしても、それを見抜いて殺す手間を考えたら「全ての場面で殺せない」とした方が無駄な労力が少なくて済むといえるのではないかと思われるのです。

少し視点を移して、今度は殺し全体のリスクが少ないような場合を考えても、そもそもそんな社会が殺しを拒絶する社会と比べてどれほど自分に有益でしょうか。殺しのリスクが少ないことはとりもなおさず殺されるリスクが増大してしまいます。そして殺し殺される不安定な社会では様々なデメリットが併発する羽目になります。少なくとも私にはそんな社会を望む理由が無い。

さてここで、一般に殺しを許容するのが駄目なら、一般には殺しを否定しつつ、自分だけ密かに殺しの利益を堪能しようという考えも浮かぶかもしれません。しかし、それは大した利益と結びついていないと思われてなりません。こういう態度はそもそも規律にへばりつく寄生虫(しかも有益でない方の)のようなものであり、規律を滅ぼすほど増大した時には自らの身の破滅を意味するのであり、規律を崩さない範囲で小さくまとまって小さな利益にありつこうという態度を取らねばなりますまい。しかも自分の例外を認めてしまうような状況は、とりもなおさず他者の例外も認めかねない。
結局、自分を例外とすることでも、規律を脅かすリスクを超えるほどの利益は結局得られないと考えられるわけです。結局、わざわざ人を殺すくらいならほかの事を考えた方がまし(殺しに利益があるとしても、殺さないでもっと多くの利益が得られる)という結論に落ち着くのではないかと思われるのです。

少し言い方を代えると、逆保険とでも言いましょうか、保険は百回中一回のリスクが致命的である危険に備えて百回分の準備をするようなものですが、殺しの場合は逆にもしかして百回中一回くらい殺したほうがいい場面もあるかもしれないが、しかしその為にわざわざ殺人の利益を計算したり準備したりする手間をかけるくらいなら、全部殺さないと一括した方が遥かに自分にとって有益なのではないか?というわけです。

常に計算ミスがありえますが、しかしこの立場の利益もあるように思われます。この場合人は一般に殺してはいけないことになります。例え相手のことを黄色くて毛の薄いサルだと思った場合でも、自分が殺されにくい社会を築きあげる為ならそのサルを殺さない事も辞さない構えなわけです。人間じゃないから殺していいという理屈はここでは通用させません。

他にも色々考えられそうではありますが、とりあえずこのあたりで質疑応答に移らせてください。
posted by князь Мышкин at 00:54| マイアミ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | シリーズ寸評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。