再度引用すると
中高年層に代表される守旧的な保守主義とは違うものであり
「無謬の正義の立場」に立っているかのような語り口を拒絶する、そのように見えるだけで×という意味での形式主義的・否定神学的な、「反サヨク」「反シミン」的感性と
「あえて」サヨク・シミン的なものを否定し続けることで(積極的に右翼思想にコミットするというよりは、「『右』の敵(=「左」)」の敵を演じることで)共同性を得られたかるのように思えてしまうようなロマン主義的シニシズム
これに少し違和感を感じるのであるが、しかしまず、彼らが右翼的思想を持っていないのには同意したい。特定の集団ではなく、思想を共有してすら居ないだろう。『「無謬の正義の立場」に立っているかのような語り口を拒絶する』というのも、確かにその一面はあるだろう。そして、そういう「無謬の正義の立場」を取ることが、右翼よりも左翼に見られやすいから確率的に、傾向として「反サヨク・シミン」的になるというのは一応頷けなくはない。
ここで小倉氏のエントリに話を戻すと判りやすいかもしれない。若隠居氏のブログがネット右翼によって閉鎖させられたというが、その通りだとしても、上記の事から若隠居氏がサヨク・シミン的である必要はなくなる。要は若隠居氏が「無謬の正義の立場」を取っていれば叩くに足るのである。
しかしここまでくると一つの違和感がある。そのようなアンチの立場、シニシズムは、果たして共有できようか?「共同性を得られたかるのように思えて」しまったら、それに対しても冷笑的にならねばならないのではなかろうか?
シニシズム【cynicism】
(1) キニク学派の主張。現世に対して逃避的・嘲笑的な態度をとる。犬儒学派。シニスム。
(2) 社会風習や道徳・理念などを冷笑・無視する生活態度をさす。犬儒主義。冷笑主義。シニスム。
新辞林より
現世に対して嘲笑的な態度を取る人間がどうやってその態度を共有するのであろうか?シニシズムはもっと孤独になるような気がしてならない。確かにいくばくかのシニシストが、正義を声高に叫ぶ人を叩く事はあるかもしれない。しかし、ある程度の人数が叩いたら、今度は叩いた人間に対しても嘲笑的になるのではなかろうか?「バカとバカがバカやってる」と。つまり、大勢の人間が大挙して押し寄せる原理を、ロマン主義的シニシズムでは説明できないように思われるのである。
私はむしろ、ネットにおけるロマン主義的シニシズムに対しても反発し、しかし無謬の正義など語れないとしてしまった者たちが、結果として特定の偽善(と見なした対象)に対して対抗し、結果的に悪の対立者としての正義を共有しているのではないかと思われる。
ロマン主義的シニシズムなるものがネットに蔓延している感は否めない。そもそも、混乱する現代においてはネットに限らず無謬の正義を語ることはナンセンスになってしまっただろう。しかし、ネットを離れると判りやすいと思われるが、そういう無謬の正義を語るような活動に対して多くの人間は無関心なのではなかろうか。もしくは、なんとなく距離をおく。こういう消極性こそがシニシズムに似つかわしいような気がする。そんな奴等に積極的に関わる理由などない、というわけである。
しかしそういう正義も悪も不明瞭な現状に反発する人があるということに特別な異論はあろうか?正義はしばしば人を惹きつけ、陶酔させる。その正義分が不足しているのだから、ある種の飢餓状態から現状に反発したがる人が居ても不思議は無いはずである。正義を欲するが正義を示せない。ではどうするか。
ここで、一つの選択肢として悪者探しがはじまる。悪に対立する者として婉曲的に正義を為そうとするわけである。しかし正義の不明瞭な世界では悪も不明瞭である。さてどうしよう。ここで、さらに搦め手を使ってはどうだろう。偽りの正義を語るものは悪である、と。
そうして、論理的に矛盾していたり、論拠に誤解があったりする偽りの正義を見つけた者は正義を行使するようにその対象を糾弾する。こうなると、多くの人間が一度に押し寄せるのも頷ける。彼らが共有するのは「正義」なのであるから。
こう考えると、ネット右翼の定義を以下のように改訂できるかもしれない。
中高年層に代表される直接的な正義の主張とは違うものであり
「無謬の正義の立場」に立っているかのような語り口で、しかしその論理に問題のあるがゆえに偽善的な相手を拒絶する、そのように見えるだけで×という意味での反偽善的な、「反デムパ左翼」「反プロ市民」的感性と
「あえて」デムパ左翼・プロ市民的なものを否定し続けることで(積極的に正義にコミットするというよりは、「『善の』の敵(=「偽善」)」の敵を演じることで)共同性を得られたかるのように思えてしまうようなロマン主義的ジャスティス
こんなところか。
正義を行使しているのだから相手(悪)に容赦ないし、正義を共有する者同士大挙して押し寄せる。正義という共通項があるからうっかりすると思想的に何か共有していると誤解されうる。対象が左翼的であるかどうかも問題ではない。要は無謬の正義を語りながら、どこか語るに落ちるところがある相手であればいいのだ。
こうなると留意点もすぐ浮かぶ。
炎上させられた側は、自分たち(左)の反対だからといって相手を右だと決め付けるのは早計である。
炎上させる側は、相手(偽善≒悪)の敵だからといって、自分たちが正義と決め付けるのは早計である。
こんなところか。
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