2005年08月16日

証明の限界

今回は証明について考えたい。こことかここを見ながら。

証明の基本は実証である。事実を問題にするとき、事実に反するか、事実に即するかがまず第一に対立する論理の成否を左右するのは言うまでも無いだろう。ある説が事実に反する場合、その説は机上の空論でしかない。ゆえに相手を論駁する時にもまず基本は「相手の説に反する事実を例示する」という方法がとられる。これに成功すればそれ以上の反論は見苦しい言い訳くらいにしかならない。

ここで小倉氏の説は既に若干実態と乖離している。多くの論争はこの段階を問題にするので、(それゆえにソースが要求されるのである)その場合中立の第三者とか、そういうことは問題にならない。

さて、しかしながら次の問題もある。第一には、上記の段階で例示された事実の真偽を問題にする場合である。ソースのいくばくかは捏造ですらあり得る。もっとも、この場合にでも中立の第三者は不要である。あるソースの信憑性そのものを直接に問題にした場合と、そのソースの信憑性を第三者に認証してもらう場合との差異はあまりに小さい。その第三者が決してミスをしないというなら話は別であるが、多くの場合、ソースそれ自体に信憑性の差異はあるし、それを第三者にさらに評価してもらっても、権威付けのプロセスが一つ増える程度の意味でしかない。「ソースの信憑性を誰が評価するのか」という問題が「ソースの信憑性を保証する中立公正な第三者の中立性、公正さを誰が評価するのか」というところへシフトするだけである。

第二には、同一の事実を論拠としながらも、解釈が分かれる場合が考えられる。この場合、どちらの事実に対する説明が妥当と考えられるかが問題になるが、しかしやはり中立の第三者は不必要になってしまう。「説明の妥当性を誰が評価するのか」という問題が「説明の妥当性を保証する中立公正な第三者の中立性、公正さを誰が評価するのか」という問題に移るだけである。

誰に対して証明するのか、という件について私はオーディエンスに対してと回答したが、その理由も結局このあたりにある。多くのオーディエンスが納得すれば、その分反論コメントは確実に減少するし、少なくともコメントスクラム(笑)という現象は止まるだろう。小倉氏は失念しているようだが、多くの納得したオーディエンスの中には、同意する説を唱えてくれる人も出てくる可能性があるのだ。このあたり、相手側の弁護士は相手側を常に弁護する裁判とは違う。

もう一つ小倉氏が誤解しているであろう点を挙げるなら裁判の制度の限界をあまり想定していない点である。裁判において裁判官、陪審員が公正中立な第三者と、多くの人が認めるのはなぜか?それはやはり司法試験という審査を通過しているからであり、その試験の信憑性を保証するのは、結局は国家である。考えうる最大級の権威づけが為されているから、一応は認められているのである。

ここに限界があることは、裁判制度それ自体が想定して作られている。なぜわざわざ三審制を取っているのか?裁判官が十分正しいなら一度で十分であるはずだ。そうでないのは、裁判官の公正さ、中立性にも限界があり、つまりは冤罪という問題が不可避であるからだ。

裁判制度から言えるのはむしろこうである。難関、司法試験を通過した人々が審査するのだから、「十分な」中立性、公正さを有している。三審制を取っているのだから、「さらに十分な」中立性、公正さを有している。だからこのあたりで納得しなさい。周辺の制度も含め、ここまでやってフォローアップできない事は諦めなさい、と。

しかし、裁判の結果について頑なに異論を唱える人もいる。飽くまで冤罪を訴えるであるとか、あるいは(最近では著作権関連などで言われるが)法律そのものが既に現実に追いついていないなど、問題を含んでいると訴える人も居るのである。こうした人をどうやって納得させようというのか。ネットの議論においても、小倉氏が言うような相手は上記のような形で持論を曲げない人々に該当しよう。

小倉氏の言っている方法は、この点で問題を含んでいる。小倉氏は裁判のような方法が不足しているからネット議論は問題だというように言っているが、そういう人はおそらく、裁判の判決にも納得しないような人、状況であるのだ。小倉氏の方法は解決になっていないのではないかと思われる。小倉氏は裁判というシステムを過信しているのではなかろうか。裁判は法律上の賠償であるとか、刑の執行であるとかを遂行しなければならないがゆえに便宜上「十分な信憑性」を持って判決を下すようにしているだけである。現実問題、裁判の結果がどうなろうと、(法の範囲内で)その判決に不満をたれることまでは止められないだろう。そして、ネットの議論ではその不満の部分がほぼ全体なのである。「**という権威が言っているのだから納得しろ」と言うのも勝手なら、「そんな権威認めない」と返すのも勝手なのである。結局は、相手を直接に納得させるか、さもなくばいっそ相手をするのを諦めるしかない。とりわけ諦めるというのは重要である。論理が通用しないアレな人との論争においては、こちらの正当性をそれなりに示した上で、その相手を切り捨てることは、時に必要である。「こちらが切り捨てた」のか、「答えに窮して逃げ出した」のかを決めるのは誰か?「オーディエンス」ではなかろうか。

(やや別の問題になるが、「そんな権威認めない」という問題も裁判にはある。日本の裁判ならともかく、小倉氏はどこの国の裁判も十分正当で公平で中立だと言うつもりだろうか。どの国の司法も、警察も、賄賂で左右されたりなど決してしないと言うつもりだろうか。このあたり少し見過ごしているような気がする)
(もう一つ。公正な第三者の登場は現在のネット議論にもしばしば起こっていることである。ある論争をしている状況に、その当事者の誰よりそのテーマに詳しい人間が注釈を加えたり、その人物が一方を指示することで決着したりというのは珍しくないだろう。しかし小倉氏はそれをどう考えるだろう。「その程度では公正中立な第三者とは言えない」と言うかもしれない。しかしそれは、裁判官に対しても同じ台詞を言い放つことが可能である。結局それも程度問題でしかなく、又最上級の存在を瑣末な議論に呼ぶのも不可能である。そしてその裁定者の権威を認めるも認めないも、最後は当事者の問題に戻ってくる)
posted by князь Мышкин at 00:54| ドバイ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 匿名ネットワーク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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