2005年08月21日

裁判を想定しすぎているのでは

小倉氏のエントリのこの発言

私たちの業界では、最初から「立証責任」云々という議論をするのは端から自分たちの主張に自信がないことを示してしまっているように見えるので、なるべく回避すべきなんてことをいう人々は少なからずいたりなんかします


これがどういうことなのか少し考えてみた。

裁判において、相手に立証責任を要求する場合、しかも弁護士が相手に要求する場合というのを考えると、この意味はなるほどそのとおりかもしれないといえそうである。

弁護士が立証責任を相手に要求する、つまり「証拠は?」という場合とは刑事事件を考えると判り易いかもしれない。これは、証拠不十分による無罪を目指す状況と言えるだろう。民事においても、自分側に有利な状況を示せず、相手側の主張を不確かなものにすることで、可能な限りの譲歩を相手に求めるような戦略が見て取れるところである。こういった場合、弁護する側に有利な要素があれば確かに立証責任を要求するまでもないということになる。極端な例ではあるが、刑事の場合などはどうにかアリバイを成立させさえすれば相手に証拠云々を言う必要が無いということで判りやすいし、民事においても攻勢に出るためには自分側から相手に要求するための何かを立証してゆかないと、防戦一方である。

確かに裁判では、弁護士界隈ではそうなるのだが、一般の議論では少し条件が異なるだろう。まず、裁判において、自分が民事の原告側の弁護士として参加する場合を除けば、相手側に証拠を求めるのは自分側が積極的に立証できないような、少なからず窮地に立たされた側面があるとは思われるのだが、一般の議論では、必ずしも落ち度がなくとも糾弾することは可能になるのである。

小倉氏言うところの証明を要求する時というのは、ネットでの議論においては、つまりは陰謀論に対する対処であると思われる。例えばユダヤの陰謀であると提唱し、糾弾している者が居たとして、「ユダヤの陰謀ではなかった」と証明することはいわゆる悪魔の証明となる。ある事実が無かったことを証明するのは、有った可能性を列挙し、その全てを否定しなければならなくなるのであり、膨大な可能性を全て列挙することはおよそ不可能に近い。

それゆえに陰謀めいた時に証明を要求し立証責任を求める形になる。換言すれば、この立証責任(と称されるもの)を無視してよければ、いかなる珍説も、証拠なしに提唱することが可能になる。

実のところ、証明責任云々言うシチュエーションはいわゆる「ネット右翼」の関わる状況で、どれほどあったろうか。むしろ、珍説に対して矛盾する情報ソースを提示するなり、その説の情報源の偏りを指摘するなりしている事のほうがよほど多かったのではなかろうか。敢えて言うなら、陰謀論もそういった反駁に慣らされた結果として、その陰謀論と矛盾するような情報の存在しない隙間を狙うな論を展開するようになったのではなかろうか、とすら思うのである。そのような間隙を突くような珍説に遭遇して初めて、「立証できるか?」という議論が始まるのではなかろうか。
posted by князь Мышкин at 00:49| バンクーバー ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 匿名ネットワーク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
要するに、オグリンはネットという公共の場に、得意分野の法律ルールを強引に持ち込んで、そのルール(を知らない者も訴訟法)に従えと人を見下しているだけのように思うのは私だけでしょうか?
Posted by はりぼて at 2005年08月21日 15:28
かもしれません。あるいは、法廷という限定条件での議論を、無制限的な議論の方法としてしまった、ですとか。
Posted by Мышкин at 2005年08月21日 23:45
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