2005年10月12日

私が誇りと呼んだもの

名指しで批判を受けたようなので弁明しておく。

だから、ここはあえて名前を出しますが、Мышкинさんの「少なくとも私は誇りに思う事に具体的な理由など不要であると要約できるような主張をした」なんてのは、すこぶるつきの暴論で韓国のことは笑えません


氏の立場を検討しながら私の立場を再確認してみる。

まずはこちらから。
ただ、「じゃあ、おたく、日本人として誇りに思うと言ったときの日本人ってなんなのさ」と問い返してやればいい。たぶん、たいていの人は返答できないから。それくらい、観念的で実質のないところで日本人として誇りに思っていることが露呈されるはずで、実際に先生はその戦略でやってる。


私は誇りの本質を「自己肯定感」とした。であるなら日本人の本質は「日本人としての私」である。日本人とは自己という観念を、若干実質化した程度であるから、当然観念的である。(自己がどの程度観念的であるのかは氏の質問を若干いじれば事たるだろう。「自分を誇りに思うと言ったときの自分ってなんなのさ」と。これに明確に回答する人間は、叡智に満ちた賢者か、只の馬鹿かのいずれかである)

そして、その上で差別意識とつながりかねないってなことを、まあ、お節介として、あるいは老婆心ながら叱り飛ばしてやればいいわけです

これについては後述する。観念的であるから差別意識につながるという接続に異議を唱える。

次のエントリ
結局のところ、いくら言ってみても「日本人として誇りに思う」っていったときの「日本人」って実質がないものなんですよ。そこで何かを語ろうとするとどうしたって「共同幻想」の押し付けになってしまう。そして「共同幻想」になって当然なんです。


単一の「日本」を想定しようとすればそうだろうが、ある人が誇りに思う「日本」と、他の人が誇りに思う「日本」とが違っていても何ら問題なかろう。ゆえに…
そういうことを全部すっ飛ばして「日本料理が」とか「文学が」とかいう話になると「そりゃおたく共同幻想じゃろ」って返されちゃっておわるんです。

この返しは不要であろう。ある人が「自分は**ゆえ日本を誇りに思う」と任意の**で説明してもそれを否定する必要はないしそれを共有する必要もなく、そもそも「**ゆえ」の部分が論理的である必要もない。たとえば全ての日本人(とされそうな)人の中で、そのことで日本を誇る人物がその人一人であったとしても何ら問題なかろう。そして、だからこそ他人に押し付け、共有を強要しようとするといびつに歪む、というのが私の考えである。

私がここで言っている誇りは、根拠など必要ないし、観念的で構わない。そして、それゆえ自己の内面で完結すべきだとも考えている。何らかの形で他者に依存することは忌むべきであると。

私からすると、氏の主張している誇りの問題点は、観念的であることそのものの問題ではなくその観念的ゆえになんとか実質を得ようと必死になるプロセスでゆがみを生じている事の説明であるように思われるところである。いやむしろ、私は日本人を誇ることすら、自己を直接に観念的に誇ることが難しいゆえの、誇りを保つための実質的ツールでしかないと考えている。厳密に言えば日本人であるという実質すら私は不要であると考えている。その一方で、日本人というまだまだ観念的なものでは満足に誇れない人はあれこれの理由を考えるのであろう。

さてここで次のエントリを見てみる。
日本人として誇る前に、何が自分にとって大事なものか、考えてみてください、探してみてください。何でもいいんです。地元のお酒でもいい、言葉でもいい、お仕事でもいい、なんでもいい。自分にとって大事なものが一番大事なのであって、後付けでできたような「日本人」ってな概念を無理に信奉しなきゃならない必然性はどこにもありゃしません。あ、でもいろいろ考えた挙句、やっぱり「日本人として誇るよ」というのなら、それは誰も止める権利はありません。もちろん、それも個人の自由だと思います。


はて?これでどうして私の発言が暴論になるのであろうか。いかなる具体物を列挙しようが、「あれこれの具体物は誇るに相応しいが、日本人という観念的なことは誇るに相応しいと思わない」という氏の個人的な「理由」によって切り分けられているだけである。私が理由といったのは「ではどうしてそれを誇れるのですか?」という問いに対する説明のことである。地元のお酒であろうと、「ではなんんでそれを誇るのですか?」という問いに説明を返せようか?どんな説明をしようとそれは胡散臭くなるだけである、ということは氏本人のところでも、小倉氏のところでも再現されている。何を誇るかは本人の自由。それを誇るのに説明など要らないという意味で誇りに思う事に具体的な理由など不要としたのである。氏の主張と対立すらしていないように思われる。違うのは、氏は具体的な事柄は誇るに相応しく、観念的にすぎる事柄は誇るに相応しくないと考えているらしいという事くらいである。私は逆に本質的にはより観念的で孤立無援な自己を直接に誇るべきであり、日本人というやや具体的な事柄と結びつく観念すら単なる手助けでしかないと考えている点くらいであろう。

長くなったので一旦区切る。次回は、氏が観念的な日本人ということを誇る弊害としていることについて考えたい。

付録、これまでに立ち上げた誇り関連エントリ

今日の観察(9月30日)
坊主憎けりゃ
今日の観察(10月08日)
そんな誇りは捨ててしまえ
posted by князь Мышкин at 00:23| バンクーバー ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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