2005年10月13日

私が誇りとよんだもの2

前回の続きである。今回は、保留していた観念的な日本人であるという誇りが差別意識などの弊害をもたらすという点について考えてみたい。

さて、単純にみて「観念的なことを誇ると差別などの弊害があるが、具体的なことを誇るならそういう弊害はない」という文は論理的にしっかり接続しているだろうか。観念的、ということ差別とが、分析的あるいは総合的に常に結びつくといえようか。

これについては氏の別の言葉のなかに既に答えがあるような気がする。ここである

的外れかもしれないけれどあえて書くと、わたしの知っている範囲での感触でいえば、「国家」を誇るよりも、まず第一には自分の住んでいる土地のことはどうなんだろうと思う。あるいは「家」でもいいのかもしれないし「○○市」でも「○○県」でもいい。国家単位よりもずっと低いレベルのところで自慢をする。それが一番その人にとって身近なものだし、離れられないもののはずなのに、そういうところから遊離していきなり実質のない概念である「国家」に飛んじゃうから、ヲイヲイ、と思ってみたりするのでね。


と、言いつつ
連想から話をずらすと、そういう意味では「日本人」で括っていただきたくないですな。坂東の人間とひとくくりにされるならば、腹切って俺は死ぬw。関東と関西で内戦が起これば、真っ先に手を上げて関東軍を全滅させるつもりだw。

少し操作してみよう
『「アジア人」で括っていただきたくないですな。シナやチョンの人間とひとくくりにされるならば、腹切って俺は死ぬw。朝鮮半島と日本で戦争が起これば、真っ先に手を上げて朝鮮人を全滅させるつもりだw。』
まあこれも氏と同じで冗談でしかないが、見ての通りである。観念的な日本人概念よりもっと具体的に誇るものがあるし、観念的な日本人には弊害があると言いながら、より具体的な場面で全く同じ問題が表出しうることを、冗談とはいえ吐露してしまっているではないか。


ここで一つ気づいた事がある。そもそも氏がいうような地域密着な誇りを持ち得ない人間はどうすればいいだろう。生まれ育った地元を離れ、都会に出てきた人間や、さらに日本をすら離れ海外に住む人々は。彼らにとって土地も家も、近所の人々ももはや遠い彼方である。それらと自分を結びつける最後の鎖が「日本人である」ということになるのではなかろうか。転じて、日本人の誇り云々言い出す人は都会に(しかも上京してきた人に)多いのではないか?という仮説も出せよう。閑話休題。

そして、新しいエントリでそれまでの言説を覆しかねない発言をしている。

・「日本人として誇る」といったときの「日本人」には根拠がない。

「国」レベルでいうと、ユダヤ人はユダヤ教、ドイツ人はドイツ語を語る人たちという括りが近代国家成立以前からあったと思うし意識してたと思うけど、同じことが「日本人」についていえるのかどうか、よく分かりません。明治国家が成立して、はじめて「日本人」という括りが一般的に浸透したし意識も成立したように思います。専門家じゃないから断定できませんけれど。


はて、日本人には根拠がなく、ユダヤ人やドイツ人には根拠がある…?しかもその理由が「近代国家成立以前からあったから」と言いたいのだろうか???ここには前提「近代国家以前からあった概念には根拠が与えられ、それ以降の概念には根拠は与えない」がある。この前提は真か偽か?

・お国自慢はべつとして、根拠がないのに「日本人として誇る」といっちゃうと、差別主義・排外主義になり勝ち。

「差別主義的な文脈でばかり誇るという発言が出る」ことと「誇る事そのものが差別主義的な文脈の原因となる」こととは違う。前者なら発言の仕方の問題。後者であってはじめて日本人であることを誇る問題となる。

・愛国心と同じように、家や生まれ故郷で「マジ」に誇られるとはた迷惑ですよ。私も「家自慢」の被害者で、大金が動いたことがありましたからよく分かります。

やはり家だろうと地域だろうと、その誇りを他人に押し付ければ弊害があるようである。この直後、「観念的だから危険」的な発言はなりを潜め、別の理由が出てくる。

一方で「国家」の場合は下手すると戦争でも外交的選択の間違いでもなんでもいいが巨大な実害が生じかねないし、差別主義的な言説になじみやすいのはすでに書きました。それも個々人の単位じゃなくて、数が違うから、比較になんない。それにそもそも論として「日本人」とか「日本」とかいうのが、近代国家成立の方便なわけですから、そこに絶対的にこだわらなきゃならないという理由がない。


なるほど、身近な誇りに比べ、国家レベルになると弊害も大きくなる、というようだ。確かに私も近代国家における方便としての愛国というのは戦前の日本でも、今の韓国あたりでもしばしば利用されているように思われる。しかしここで抜け落ちている理由がある「なぜそんなプロパガンダを利用しようとするのか?」

これも以前のエントリで書いた覚えがあるが、個人は、あるいは少数の集団までは個別の信条、理念で動く事があるが、大きな企業や国家はそんな意向では動かない。それらは利益になる方向で動くと主張した。

これに従うなら抜け落ちた理由が出てくる「愛国の類を煽ることは、リスクも大きいが利益もある」というものである。ここではじめて日本人を誇りに思うことが共同幻想になりうる。本来非常に観念的で、その内容がてんでばらばらな日本人という概念に一定のガイドラインを与え、共通の日本人感を共有するためにはプロデュースする存在が必要である。そしてその流れを大きなものにするためにはどうしても大きなビジネスとせねばなるまい。

実際のところ嫌韓とほぼ平行して韓流ブームは今なお存在し続けている。では韓流ブームに乗っている人間は日本人としての誇りなど持っていないといえようか?いや、むしろ一方でヨン様ヨン様言って、舌のねが乾かぬうちにサッカースタジアムでニッポンチャチャチャというのがありふれた動向ではなかろうか?

つまるところ、愛国やらが危険になるのはそれを煽る政治(経済)意図が不可欠ではないか?と思われるのである。

余談になるが、氏がリンクしていた松永氏の場所であるのだが…
「愛国心ってのはあれだろ。自分に自信の無い奴が自信の対象を国にスライドさせているだけだろ」

「そういう極端な意見は置いといて」

 極端と言われていますが、しかし、私にはこれが最も実感の持てる考え方なのです


私は以前こんな事を言った
『私は「私は私のままでよい」この自己肯定感の、部分具体化が「日本人であることを誇りに思う」の正体であると考える。』
そして前回こう言った
『日本人を誇ることすら、自己を直接に観念的に誇ることが難しいゆえの、誇りを保つための実質的ツールでしかないと考えている。』
再度閑話休題。

「日本日本」っていわれると、「付和雷同して、共同幻想に巻き込まんでくれ」といいたくなりますよ。押し付けるつもりはなくても、その自己正当化が押し付けがましい。

気のせい。

・・とまあ、いろいろ書きましたけれど、あとは個人の自由だと思いますよ。そこまで止める権利は誰にもないです。「取扱注意」の張り紙を忘れないでください。

それは全ての誇りに言えることではなかろうか?最初からそういう意図でエントリを展開していたのだろうか?ならなんで「○○人として誇る」ということだけ注意が必要なのかというエントリのタイトルは変更が必要になろう。

ついでに誇りにおける問題点は私も過去のエントリで言及していた。
この場合もちろん留意点がある。
他人と比較して小さい自尊心を満足させようとしていないか?
何かを絶対の基準とし、それを褒め称えられる事を求めてはいまいか?
欠点に目を背け、気づかぬふりをしてはいないか?
こういったことである。


これは、観念的であろうが具体的であろうが、いかなる形で誇るにおいても必要な注意であろう。
posted by князь Мышкин at 00:04| バンクーバー ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
Мышкинさんの考えの表明、とてもわかりやすいです。
非常に興味深く読ませて頂きました。

こういうコメント残すのは変ですけど、
丁寧なエントリーお疲れ様です〜
Posted by りんご。 at 2005年10月13日 20:06
てへり☆
Posted by Мышкин at 2005年10月14日 21:38
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