2005年10月16日

再放送

いい加減あちらのコメント欄が、こちらの再放送になってきているので、あと少し残っている部分はこちらに乱雑に書き留めて終わりにしようかと思う。(と、このエントリを書き留めていたら、うpする前に続きが。でももったいないのでUP)



日本もドイツもフィクションだとすると

>・「日本人として誇る」といったときの「日本人」には根拠がない。

「国」レベルでいうと、ユダヤ人はユダヤ教、ドイツ人はドイツ語を語る人たちという括りが近代国家成立以前からあったと思うし意識してたと思うけど、同じことが「日本人」についていえるのかどうか、よく分かりません。明治国家が成立して、はじめて「日本人」という括りが一般的に浸透したし意識も成立したように思います。

これはつまり、ドイツというフィクションは近代国家成立以前からあり、日本というフィクションはそれ以降からである、と。

しかも

>・愛国心と同じように、家や生まれ故郷で「マジ」に誇られるとはた迷惑ですよ。私も「家自慢」の被害者で、大金が動いたことがありましたからよく分かります。
その他諸々、「あらゆる誇り」は他者に押し付けると同じ症例が出るのでは?

>一方で「国家」の場合は下手すると戦争でも外交的選択の間違いでもなんでもいいが巨大な実害が生じかねないし

JSFサーンJSFサーン。クッキンストーップ!戦争ヤ外交問題ハ民族意識「ガ原因デ」起コルソウデスヨー。私ハテッキリ「戦争ヤ外交カードニプロパガンダ化シタ国民感情ヲ利用シテイル」ンダト思ッテマシタヨー。ミキコー。

>しかしこれは、確固として「日本」というものがあるわけじゃなくて、わたしにとっての「日本」でしかないわけですよ

あ、すっかり見落としてましたが私が指摘する「自明の日本は個別だよ」とほぼ同義のことを告白してますね。本人も忘れてそうですが。

>相対的なものなんですよね。相対的だと自覚してナショナリストやってますから、それは結局「ネタ」なんですよ

否。何かを絶対的と盲信して誇りとすると、崩れたときのリスクは個人の内面ではナショナリズムの比ではない。会社人としての誇りを持って仕事をしている人がある時リストラに遭い、失意のまま自殺。最悪のパターンです。私が言う誇りが理由を排除したがるのは可能な限り理由が少ない方が、そして具体的でない方が喪失リスクが減るからである。

いずれにせよ氏の場合観念的な言葉が多い気がする。で、例示しない場合がある。私は「日本という概念が最近作られたものであろうと、実は他人と共有できていなかろうと、日本を誇りに思う」これは相対化、とほぼ同義なんじゃないでしょうか。私が先に、より具体的に例示しているのに、それを「相対化」とか観念的に再放送しつつ、同時に私と対立する論だとしている。はてさて。しかし、私の場合の日本は「ネタ」にはなりません。自己肯定をネタにするのはシニシストになりましょうが、全員にシニシストになることを要求するのは言いすぎでしょう。自分がそうするのは勝手ですが。
posted by князь Мышкин at 00:01| バンクーバー ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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