2005年10月17日

誇りある生とは

今回は、すこしヒントを得ながら、誇りのありよう、私が誇りと呼んだものについて考えたい。

引用は、V.フランクルの言う生きていく事の価値、である。

一つは「創造的価値」 何かを行為し創造していく価値
 二つめは「体験価値」 何か、自然、音楽など、素晴らしいもの、美しいものにふれて、感動することの価値
 そして三つめが「態度価値」


日本人であることを誇りに思う、というのもこの三つに分類できよう。

一つは日本に貢献し、ささやかでも何か行為し、日本を造っていくことの誇り。(誰かはフィクションというが、高度成長期の日本人の労働者には、少なからずこれをリアルに感じていたい人が居たと私は思うのである)

二つ目はこれまで積み重ねてきた日本の文化、自然、すばらしいもの、美しいものによる誇り。どこかの弁護士は、他人の功績だと否定していたようだが、素直によいものはよいと思えることは誇ってよいのではなかろうか。

そして三つ目。態度的価値。私が「たとえ自分には何も出来なくても、それでも私は誇りを持って生きる」ということこそ誇りと言ったが、それはこの態度的価値に似ている。
日本にあてはめるなら、「この国はいい事ばかりじゃないし、つらい事もあるけれど、それでも日本に誇りを持つ」ということになろうか。

即ち人間の生命はその意味を「極限まで」保持しているのである。従って、人間が息をしている限り、また彼が意識をもっている限り、人間は価値に対して、少くとも態度価値に対して、責任を担っているのである。価値を実現化するという彼の義務は人間をその存在の最後の瞬間まで離さないのである。価値実現の完成がたとえどんなに制限されようとも、態度価値を実現化することは可能でありつづける。…』(『死と愛』P.53-54)みすず書房

そう、たとえいま将に死の淵に立たされ、後は最後のときを待つばかりといえどもこの態度的価値はあり続ける、というのである。私はそういう価値ゆえに、誇りに理由など要らないし、何も無くても誇り高く生きていいし、生きられると思うのである。

フランクルによると、最後まで消せない第三の価値こそ根源的であるという。私もそう思う。
posted by князь Мышкин at 00:04| バンクーバー ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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