2005年10月22日

自明であることの限界

記事の重複は気にしないこととする。
世には様々な「自明の事」がある、しかしそれはあまりに多くの場合まやかしである。

以前コメント欄で述べた「信じる心」などその典型である。何をもって「信じる」とするかは人によって大いに様々であり、また同じ人でも違うモチベーションで使うことすらある。

しかしでは「信じる」ことは自明ではないか?否。信じることはやはり信じることであり、自明のこととして扱われる。信じることについて詳細に論究した一部の特権階級のみが、信じると口にすることが許されるなどというわけでなく、だれでも気軽に「信じてる」と言える。(もちろん、一部論究された信じるこころ〜前にも出した親鸞など〜を、世間一般で乱発される信じると同一視するわけにはゆかないが)

自明である、ということの意味をもう少し考えた方がよいような展開であった。明日も太陽は東から昇ることすら、自明ではない
posted by князь Мышкин at 00:15| バンクーバー ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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